イベント報告 第677弾


2019,3,14   自然・歴史探訪  田中城跡を訪ねて記

 織田信長の泊った城:田中城跡をご案内。信長公記に見える「田中の城」と考えられ、3度名を見ることができる。高島郡(現高島市)は、信長の最大の危機:元亀争乱の舞台になった所。その発端は、元亀元年(1570)4月20日、上洛要請を無視する朝倉義景を倒幕するため、織田信長の軍勢は、京都を出発し、湖西を北上し若狭から敦賀に向かったが、その途次4月21日、信長は「田中城」に逗留している。この軍勢に、のちの豊臣秀吉・明智光秀・徳川家康も参加してる。順調に朝倉方の諸城を攻略したものの、4月28日、信長に義兄弟でもある浅井長政謀反の知らせが届く。最悪の場合、越前の朝倉方、北近江の浅井方から挟み撃ちにされる窮地に陥った。28日、浅井の謀反を確認した信長は、すみやかに金ヶ埼城を出立。信長は若狭街道を進み、その日は、国吉城(佐柿)に入った。29日、朽木氏国人領主・朽木元網の屋敷で一夜を過ごしている。信長一行は、元網の先導で険しい朽木谷を無事越えた。秀吉・光秀らの殿軍の決死の退却戦により、信長は絶対絶命のピンチを切りぬけ、30日京都に戻った。
 二度目は、元亀三年(1572)3月、「信長、和邇に出陣し、浅井・朝倉軍を木戸・田中の城に追い込む」三度目は、元亀四年(1573)7月、「信長、大船にて高島郡を攻撃。陸からも木戸・田中の城を攻める。」とある。元亀四年(1573)浅井長政の勢力下にあった田中城は、信長によって攻略され、その後は、明智光秀の支配を受けて終焉を迎える。
 このように、田中城が歴史」に登場するのは、戦国末期、「信長公記」元亀元年(1570)の条からと言われていたが、近年発表された資料(新薬方)によれば、明智光秀は永禄八年ごろ(浅井長政に仕えていたころ)、近江国高島郡田中城(滋賀県高島市)に籠城していたと発表された。


写真は、コチラ




開催日  2019年 3月 14日(木)


自然・歴史探訪田中城跡を訪ねて

コース
 JR 安曇川駅 10:00−田中城跡散策―玉泉寺―下の城跡―JR 安曇川駅

参加費内容 : 資料・環境整備費・ 保険など   一般向き

        
参加費  会員=1,000円  非会員=1,000円
      (弁当持参)

  下見情報は、No.373(3月9日実施)

金ケ崎の退き口 (推定ルート)

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